日本経済新聞「私の履歴書」に橋田壽賀子さんが降臨した令和元年五月の朝

元号が令和に移り変わった2019年5月、日本経済新聞の「私の履歴書」に脚本家の橋田壽賀子さんが登場されていました。すなわち、「私の履歴書」の令和初となる筆者が橋田壽賀子先生!これは何とも興味深い。

ということで、橋田壽賀子先生の「私の履歴書」(日本経済新聞)を個人的な嗜好に基づきながらあれこれと検証していきたいと思います。

日本経済新聞公式サイトの「私の履歴書」は有料会員限定記事となっていますが、日経電子版の無料会員登録で、有料記事も一定数閲覧できます(2019年11月9日現在)。

大きな反響を呼んだ日経新聞連載「私の履歴書」の書籍化!

 

 

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レジェンドの履歴書を拝読してみる

令和元年(2019年)5月に関する日本経済新聞朝刊の現物及び日経公式サイトの該当ページから橋田壽賀子先生(以下「先生」)の「私の履歴書」を引用しながら各記事の中で気になったことをご紹介します。

 

大きな反響を呼んだ日経新聞連載「私の履歴書」の書籍化!

(1)夫の死

橋田壽賀子(1)夫の死 - 日本経済新聞
誕生日の関係で5歳あるいは4歳下になる夫、岩崎嘉一(よしかず)の命の火が消えようとしていることを告げられたのは、昭和天皇の病状悪化で列島が自粛ムードに覆われつつあった1988(昭和63)年9月24日。「胸が痛い」というので慶応大学病院に入院して詳しい検査を受け、結果を担当医師に聞きにいったのがその日だった。「左の肺に原...

「最近の筆者」のお写真、よい表情ですなぁ。

 

「(1)夫の死」については、プロローグ的な意味合いを持たせた様相。

癌が見つかったご主人がこの世を去るまでの状況が記述されています。

ちなみに、ご主人の死についてはドラマ化もされました。

橋田壽賀子ドラマスペシャル「妻が夫をおくるとき」|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
脚本家・橋田壽賀子が「今まで生きてきた中で、これ以上の苦しみはなかった」という“夫との別れ”を描く自叙伝的ドラマ。出演は岸本加世子、大杉漣ほか。

 

ご主人を亡くしたことで天涯孤独になってしまった先生。

これまでの半生を改めて振り返って日経新聞の「私の履歴書」に書き留めることが終活の一つになった様相でしょうか。

(2)ソウル生まれ

橋田壽賀子(2)ソウル生まれ - 日本経済新聞
1925(大正14)年5月10日、私は日本の植民地だった朝鮮の京城(ソウル)で産声をあげた。父菊一34歳、母菊枝が35歳。子宝に恵まれず養子をもらおうかと話し合っている矢先に、結婚7年目でようやく生まれた娘だった。父は愛媛県今治の漁師の長男だったが、家業を継がずに朝鮮に渡り、そのころは重晶石の鉱山を経営していた。重晶石...

「3歳のころ」のお写真。当時としては「いいとこのお嬢さん」だったことが推察できます。

 

金の小粒をこしらえていた父の姿を覚えている。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月2日付朝刊

相変わらず「作る」ではなく「こしらえる」で表現してきましたねぇ。何だか嬉しい(笑)

 

たまに父が仁川の海水浴場に連れて行ってくれると、きまって熱が出た。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月2日付朝刊

お父様との距離感とか緊張感が伝わってきますね。

(3)3度の転校

橋田壽賀子(3)3度の転校 - 日本経済新聞
戸越銀座での日々は楽しかった。一番の思い出は、休みの日の銭湯の脱衣所で開かれる紙芝居大会だ。普段は街のあちこちでやっているおじさんたちが、入り代わり立ち代わり紙芝居を演じるのだ。伯母さんにもらった小遣いで酢昆布や水あめを買って、一日中見ていた。あのころは「黄金バット」が大人気だった。お姉さんが音頭を取って、町内会の子ど...

 

ある日、学校で私をいじめる女の子の髪の毛をつかみ引き倒してケガをさせた。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月3日付朝刊

いじめられながらも当時から勝気だったことをうかがい知ることができたエピソード。

(4)堺高女

橋田壽賀子(4)堺高女 - 日本経済新聞
転校先は本来の校区である英彰尋常小学校だった。学校は嫌ではなかったが、母がうっとうしかった。帰りが遅いとすぐに学校に電話する。小遣いの使い道も細かく聞く。台所に入ることも許されなかった。食事を作っているところを子どもがうろうろするのは卑しいことだと躾(しつ)けられた。魚屋や八百屋が大八車に荷を積んで御用聞きに来ても魚や...

「制服は洋装だった」のお写真。どことなくコシノジュンコさんや林真理子さんを彷彿させるようなお顔立ち。とにかく当時から何となく肝が据わっていたご様子。

 

兵隊さんに送る慰問文の課題が出ると、母に「書けないから書いて」と頼む。母の代作がコンクールで入賞したことがあった。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月4日付朝刊

当時の不正を赤裸々に語る先生(笑)

お名前が「壽賀子」さんだけに色んな意味で清々しい心意気。

(5)丸めがね

橋田壽賀子(5)丸めがね - 日本経済新聞
私は友人がいない女学生だった。誰かと話していても、相手の気持ちを害さないかとそればかりが気になる。好かれなくとも、嫌われるよりいいから、友達を持たないことにした。堺高女には食堂があったが、行ったことがない。弁当を一人で食べた。黒板の文字が見えづらくなり眼鏡をかけたのは小学2年生のときだった。近所のおばさんが「壽賀子ちゃ...

「堺の盛り場で」のお写真。戦時中のカメラ目線ではない先生をとらえています。

 

一度だけ本屋で立ち読みしていたら、肩ひものついたテント地のカバンに手紙が入っていたことがあった。「駿河屋で会いたい」とある。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月5日付朝刊

先生のささやかな青春。

(6)東京へ

橋田壽賀子(6)東京へ - 日本経済新聞
親が決めた人のところにお嫁に行くなんてまっぴらご免だった。干渉を繰り返す母と暮らすのも苦痛だった。それから逃れるには東京に出るしかない。高等女学校の上に専門学校があって、その中から目白にある4年制の日本女子大学校を選んだ。日本女子大は大阪でも入学試験をやっていた。試験当日、「友だちと出かける」とウソをついて家を出た。出...

「若き日の母、菊江」のお写真。どことなく渡鬼の青山タキを思い出してしまったりと。

 

狭い座席で荷物をほどくと番号を振った弁当が5つも出て来た。1番は私の好物のローストビーフ。5番は牛肉のつくだ煮。傷みやすい順に食べるようにとの思いやりに胸が痛んだ。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月6日付朝刊

菊江さんは過干渉だったのかもしれないけど、客観的には娘への大いなる愛情を感じますね。

押されるとつい引いてしまうのが人の性。先生も例外ではなかった様相。

(7)玉音放送

橋田壽賀子(7)玉音放送 - 日本経済新聞
堺の家に帰れば、また母といさかいを繰り返しながらの生活が始まる。憂鬱だった私に救いの手を伸ばしてくれたのはソウルの父だった。父の紹介で大阪の蛍池(ほたるがいけ)にある大阪海軍経理部に、下宿付きで「理事生」として採用された。理事生はコネで入ったと思われる良家の子女ばかりで、軍属だったらしい父はどこかに手を回して、私を押し...

 

「(6)東京へ」もそうでしたが、戦時中から敗戦直後にかけての貴重なご経験を語り伝えてくださっています。

やはり先生の実体験だけに読みごたえがあります。

 

「(7)玉音放送」については別記事をこしらえました。下記ページをご確認ください。

日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子(7)玉音放送」大阪海軍経理部で迎えた終戦
令和元年五月八日付日経新聞「私の履歴書 橋田壽賀子(7)玉音放送」を通して、橋田先生の戦争体験を改めましてご紹介します。 日本経済新聞公式サイトの「私の履歴書」は有料会員限定記事となっていますが、日経電子版の無料会員登録で、有料記事も一定数...

(8)山形・左沢

橋田壽賀子(8)山形・左沢 - 日本経済新聞
大阪から東京に向かう夜行の鈍行列車の混雑は殺人的だった。戦争が終わり疎開先から都会の家や職場に戻ろうとする人たち。ふるさとを目指す兵隊さんたち。親戚や知人を頼って行く人たち。様々な乗客が、運行本数が減った列車に殺到した。私は座れたが、そうでない人々は男も女も、大人も子どもも車内の隙間という隙間を埋め尽くした。網棚に幼い...

 

敗戦直後、疎開していた伯母を頼って向かったのが山形。ここで地元のおばさんから『おしん』の原案となるお話をいろいろと聞かせてもらったわけですね。

2019年にNHK連続テレビ小説『おしん』がBSプレミアムで再放送されて大ブレーク!

(9)早大入学

橋田壽賀子(9)早大入学 - 日本経済新聞
山形の左沢(あてらざわ)で聞いた昔話は私を揺さぶった。農家では長男が家を継ぎ、次三男はよそに働きに出た。まして娘たちは口減らしのために幼いころから奉公に行くのが当たり前だった。赤ん坊を背負って子守をしながら学校に通う姿も珍しくなかったという。都会育ちの私が知らないもう一つの日本の歴史がそこにある。私は「すごい話だな」と...

「早大に入学したころ」のお写真。当時の先生がモダンであったことが醸し出されている様相。

 

しかし映画関係者からも多くの戦死者を出していたから人材不足は深刻だった。そこで映画各社は大量の新人をほしがっていた。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月10日付朝刊

先生が松竹に入社できた一因として戦争も影響していたわけです。

(10)就職

橋田壽賀子(10)就職 - 日本経済新聞
親の反対を押し切って早稲田に入った私は勘当同然で、生活費も送られて来なかった。頼りは戸越銀座の伯母だけ。一家の母屋の隣に建てた掘っ立て小屋に居候し、伯母が手がけていたアミノ酸の代用醤油(しょうゆ)を売り歩いた手間賃でその日その日をしのいでいた。そんな生活だったから、松竹がくれるという給料に引かれて受験したのが本音だ。1...

 

ある先生は「女に映画のホン(脚本)が書けるわけがない」「女のくせに映画の世界に足を突っ込むなんて」と面と向かって私に毒づいた。〈中略〉犬の散歩までさせられたので腹立ち紛れに犬を蹴飛ばしたら、それがばれて奥さんに大目玉を食った。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月11日付朝刊

イヌや愛犬家の皆様には恐縮ですが。橋田壽賀子先生らしいかもなエピソード(笑)

(11)撮影所

橋田壽賀子(11)撮影所 - 日本経済新聞
松竹の脚本部員になったのはいいものの、今で言うパワハラの連続で参っていた私だが、少しはいい思い出もある。1950(昭和25)年9月に公開された大庭秀雄監督の「長崎の鐘」の脚本を手伝った折のことだ。大庭監督は大船撮影所の方だが、このときは京都で撮影した。監督が陣取る旅館「鮒(ふな)屋」の一室が仕事部屋。東京の脚本部の中心...

 

小説を連載していた雑誌「少女」。ご縁があれば読んでみたいですね。

あと余談ではありますが、松竹ということで。いまさらながら山田洋次監督も橋田壽賀子先生の後輩なわけです。

 

山田洋次監督と言えば、令和元年5月に第27回橋田賞を受賞されました。

(12)母の死

橋田壽賀子(12)母の死 - 日本経済新聞
雑誌「少女」の連載は好評で、品川区豊町のアパートの1部屋を仕事部屋にして書き続けた。でも会社の仕事は相変わらず脚本家の下働きばかり。何年たっても独り立ちできるとは思えない。毎日会社に行く必要もない上に、収入は倍以上に増えた。私は旅に出るようになった。ただ、あのころは女の一人旅だと、なかなか宿に泊めてくれない。傷心旅行の...

 

旅好きで一人旅を楽しむためにユースホステルを利用していた先生。当時としてはナウいというか最先端っぽいかも。

作家として食べていきたかった橋田壽賀子先生にとって、事務部門への異動は当然のことながら受け入れられなかったご様子。それでも松竹を辞めたことは、結果論としてテレビドラマに進出するよい機会に。

(13)テレビの時代

橋田壽賀子(13)テレビの時代 - 日本経済新聞
そのころ「これからはテレビの時代になるのではないか」と漠然と考えていた。皇太子だった上皇様と美智子様のご成婚の様子をテレビで見たのがきっかけだった。1959(昭和34)年4月10日のご成婚に間に合わせようと、その年2月に日本教育テレビ(現テレビ朝日)が、3月にはフジテレビが開局し、テレビは娯楽の中心になろうとしていた。...

 

さりげなく演出家の鴨下信一さんとの出会いについても触れられましたね。

テレビがくれた夢 鴨下信一|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
テレビ番組の制作に深くかかわったスタッフをゲストに迎えて、名作の知られざるエピソードを紹介するTBSチャンネルのオリジナル番組。ゲスト:鴨下信一
鴨下信一さんが演出した作品は所々で衝撃的な印象。例えば「岸辺のアルバム」。中田喜子さん扮する律子が恋人だったチャーリーの友人に乱暴される情景で、悲鳴を上げる律子の面相がズームアップされてエンディングとか。一部始終を下手に描写することなく、律子の恐怖を表現したわけです。

(14)「チチキトク」

橋田壽賀子(14)「チチキトク」 - 日本経済新聞
父の菊一が69歳で亡くなったのは、私の初めてのドラマ「夫婦百景」が放送される前年の1960(昭和35)年9月のことだった。発信人に心当たりのない「チチキトク」という電報をもらって、取るものも取りあえず京都の父の家に行くと、粋筋の出らしい女(ひと)が待っていた。「電報を打ったときにはもう亡くなってはりました。いきなりやと...

 

全てが終わって父の遺骨を今治の菩提寺に持って行き、その女が付けた戒名とは別の戒名を付け直してもらって母が眠るお墓に納めた。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月15日付朝刊

身内としては当然の対応だったかも。

(15)「東芝日曜劇場」

橋田壽賀子(15)「東芝日曜劇場」 石井さん ダメ出しばかり テレビドラマのあり方学ぶ - 日本経済新聞
石井ふく子さんはプロデューサーとして原作、脚本家、ディレクター、配役などを決め、「東芝日曜劇場」をTBSの名物番組に育てた人だった。その石井さんに引き合わされることになって、少し緊張した。というのもこちらは駆け出しの脚本家。石井さんはその時点で100回もの日曜劇場を手がけてきたバリバリのプロデューサー。気に入られなけれ...

当時の石井ふく子プロデューサー、いかにもアクティブな雰囲気を醸し出している印象。

他方、先生は色んな意味でミステリアスな雰囲気にも。

 

石井さんと廊下ですれ違っても挨拶を返してもらえなかった。そのときも笑うでもなく真面目一方の話し方。「つまらない女」だなと思ったし、石井さんも私と長く付き合うつもりはなさそうだった。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月16日付朝刊

ところがどっこい、軽く50年以上のお付き合いに発展した二大巨頭(笑)

 

石井さんにダメ出しされるうちに、映画時代に身についたものが少しずつ剥がれていき、テレビドラマがどういうものかぼんやりとわかってきた。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月16日付朝刊

個人的には『石井ふく子はダメ出しばかり』(仮)で当時のお二人の物語を創作してほしいと願う昨今。

(16)もじゃもじゃ頭

橋田壽賀子(16)もじゃもじゃ頭 - 日本経済新聞
「愛と死をみつめて」の脚本を書いていたころ、前後してTBSで新番組の企画会議があった。「ただいま11人」という連続ホームドラマで、「あなたにホンを書いてほしいから聞いておいて」とプロデューサーの石井ふく子さんに言われ、2人で出席した。会議が始まるともじゃもじゃ頭の男性社員が企画書を説明し始めた。「これから核家族の時代に...

 

「かいっちゃん」こと、ご主人・岩崎嘉一さんに対しては積極的にアプローチした先生の色恋沙汰物語。

入籍日の5月10日はTBSの創立記念日でもあり先生のお誕生日でもあり。ということで、色んな意味でTBSとのご縁は必然だった次第。

ちなみに、ご主人のプロデュース作品として『橋田壽賀子ドラマ・結婚』があります。

 

橋田壽賀子ドラマ・結婚|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
橋田壽賀子脚本のホームドラマ。ひとつ屋根の下に住む母親と4人の娘の女ばかりの家族にスポットを当て、それぞれが自分の幸せを模索していく姿を描く。

(17)亭主関白

橋田壽賀子(17)亭主関白 - 日本経済新聞
夫の嘉一からは「結婚したら俺の前で原稿用紙を広げるな」と言われていた。主婦業をこなすのが第一で、余裕があれば脚本を書いてもいいという。新居は千代田区三番町のマンションだった。3畳足らずのダイニングキッチンの大半を大きなテーブルが占めていて、夫が出勤するとそこが仕事場になった。原稿を書きながら、座ったまま振り向いて火加減...

「夫の口癖は『離婚だ!』だった」のお写真。それでもアツアツだなぁ(笑)

 

そして気になったのは。

視聴者の心をつかむ3つの要素

①身近なテーマ

②展開に富んだストーリー

③リアルな問題点

 

この手のテーマで先生から講義を受けたいものです。

(18)「となりの芝生」

橋田壽賀子(18)「となりの芝生」 - 日本経済新聞
銭湯を舞台にしたTBSのドラマ「時間ですよ」は1965(昭和40)年7月に東芝日曜劇場の1話として放送された。脚本を手直ししているときプロデューサーの石井ふく子さんに「題名考えて。もう時間ですよ」と言われ、そのままタイトルにした。それがどういうわけか5年後の70年になってシリーズものとしてよみがえった。舞台設定はそのま...

 

私は最初の3回で降板し、それ以来久世さんとは亡くなるまで口をきかなかった。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月19日付朝刊

この記事は非常に興味深かったですね。

TBSの『時間ですよ』と言えば、よい意味でも悪い意味でも出演者のアドリブ任せのようなコーナーがあったわけで。

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脚本で物語をがっちりと固める先生、対して『時間ですよ』における久世光彦さんの演出が合うわけがないことは明白。

ということで、早い段階で関係が決裂してしまった先生と久世光彦さん。実に惜しい。

(19)ドラマは家庭の中にあり

橋田壽賀子(19)ドラマは家庭の中にあり - 日本経済新聞
夫嘉一の父、彦次郎は終戦間際の1945(昭和20)年4月、乗っていた船がアメリカの潜水艦に沈められて亡くなった。残された2男3女を女手一つで育て上げたのが母けいだった。次男の嘉一はそんな母親が大好きで、結婚してからも暇を見つけては沼津の生家に住む母を訪ねた。夫が一人で行けばお姑(しゅうとめ)さんから「どうして壽賀子さん...

 

渡鬼などのホームドラマで、男性の登場人物はご主人の特徴、姑に関してはご主人のお母さんの特徴が随所に色濃く反映されているようです。

(20)一筋の光

橋田壽賀子(20)一筋の光 - 日本経済新聞
私は軍国少女として戦時中を生きた。戦争だから人が死んでも仕方がないと思っていた。でも戦争が終わってみると、男たちが死んだ後も女たちはずっとつらく苦しい日々をくぐらなければならなかった。戦争と女という、ドラマが手をつけていないテーマがあった。戦国時代を描くドラマの場合、有名な武将が主人公になるのが普通だが、私はずっと前か...

 

「西田敏行さんの『おかか』が流行語に」のお写真。これはNHK大河ドラマ『おんな太閤記』のものではなくTBSの『橋田壽賀子ドラマスペシャル 旦那さま大事』のもの。

橋田壽賀子ドラマスペシャル 旦那さま大事|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
橋田壽賀子脚本。戦国武将・山内一豊とその妻・千代のエピソードを描いたハートフル時代劇。出演は佐久間良子、西田敏行、池上季実子ほか。
気づいた方はなかなかの上級者(笑)

「旦那さま大事」で「うめ」役だったのが泉ピン子さん。育てた名馬を売ることで山内一豊に取り立てられたわけですが。無邪気で天真爛漫だったうめの笑顔が日経に掲載された写真にも描写されていたような。それと写真の背景に描写されたのぼり旗に「馬」の文字が入っていたので「旦那さま大事」の写真であることに気づいた次第。

まぁ同時期の作品でキャストも類似していたのでご愛嬌ですね(笑)

(21)宿願

橋田壽賀子(21)宿願 - 日本経済新聞
「おしん」の「しん」は辛抱のしん。真実のしん。真剣のしん。体の芯のしん。曲がりくねった人生を一歩また一歩と進んでいく女の名前としてはそれしかない。おしんは昭和天皇と同い年にしよう。TBSのプロデューサー、石井ふく子さんは平岩弓枝さんとのコンビでドラマを作ることが多くなっていたから、少し距離ができていた。そこで持ち込んだ...

 

小林綾子さんがオーディションに合格したこと、おしんがいかだで最初の奉公先に向かうシーンの撮影に関するお話など。

結果的に「おしん」がNHKで採用されたのも小林綾子さんが抜擢されたのも大正解。

 

(22)涙のロケ

橋田壽賀子(22)涙のロケ - 日本経済新聞
おしんは山形の小作人の子。食べる物にもこと欠く貧しさの中で育った。7人目の子を身ごもった母ふじ(泉ピン子)は凍(い)てつく川につかって流産しようとする。それを見たおしんは父作造(伊東四朗)に言われるまま、数え7歳の春に奉公に出る。筏(いかだ)の上で「母ちゃん!」と叫ぶおしん。声もなく涙するふじ。岩山の木陰を筏を追うよう...

 

しかし私はストーリーが影響を受けるのが嫌で、NHKに「評判は耳に入れないで」と頼んでいた。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月23日付朝刊

当時は悪役はもちろん、作者であった先生も必死に戦っていたことを察することができます。

 

そう言えば、最初の奉公先でおしんに厳しく当たった「つね」役の丸山裕子さん。

パフォーマンスが実に素晴らしかった。

(23)おしん症候群

橋田壽賀子(23)おしん症候群 - 日本経済新聞
1983(昭和58)年4月に「おしん」の放送が始まると瞬く間に「オシンドローム(おしん症候群)」と呼ばれるブームが巻き起こり、私は正直戸惑った。おしん役の小林綾子ちゃんの熱演もあって、NHKに届いた封書は数千通に上った。おしんへの同情や過去の自分と重ねる内容のものばかりだったという。要望に応えて7月には少女編36回分が...

 

「(23)おしん症候群」については別記事をこしらえました。下記ページをご確認ください。

日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子(23)おしん症候群」で吐露された本当の名優
NHK BSプレミアムで再放送された連続テレビ小説『おしん』。作者である橋田壽賀子さんは日本経済新聞「私の履歴書」で令和初となる筆者として2019年5月に登場されました。日毎に展開された記事はどれも興味深い内容だったわけですが。 以下、日経...

(24)夫の遺志

橋田壽賀子(24)夫の遺志 - 日本経済新聞
夫の岩崎嘉一(よしかず)、通称「かいち」が55歳になり、第1制作局専門職次長でTBSを定年退職したのは「おしん」の放送が終わって5カ月後の1984(昭和59)年8月31日のことだった。夫は会社人間ではなく仕事人間だった。夫婦の間でも話題と言えばテレビや番組のことばかり。心からテレビの仕事を愛し、人生をささげるように打ち...

 

退職してから、夫は三番町のマンションを事務所に「岩崎企画」という制作プロダクションを立ち上げた。その年、古巣のTBSで私が脚本を書いた「大家族」という全13話の連続ドラマをプロデュースする。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月25日付朝刊

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ご夫婦で取り組まれたTBSドラマ『大家族』。

BS-TBSとかで再放送してもらえると有難いですね。

 

お金はすべて夫が管理し、私は銀行口座さえ持っていなかったし、遺産相続前なので無一文だった。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月25日付朝刊

この辺のお話は浮世離れポイントが高いかも。超売れっ子の脚本家の先生が自分名義の口座を持っていなかったなんて。何だか驚きですね。ご主人が信頼できるよい人だったからこそ、財産管理をすべて委ねていたのでしょうけど。

(25)財団設立

橋田壽賀子(25)財団設立 - 日本経済新聞
私は夫の遺志である後進の育成を目的とした財団を設立することに決めた。3億円の基本財産が必要と教えられたが、相続した遺産は2億8000万円しかない。困っている私にプロデューサーの石井ふく子さんが提案した。「TBSで1年通しのドラマの脚本を書いてくれるなら、足りない分は借りてあげる」。渡りに船だった。夫を亡くした悲しみを慰...

 

(25)財団設立」については別記事をこしらえました。下記ページをご確認ください。

日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子(25)財団設立 」が呈した渡鬼誕生物語
令和元年五月、日本経済新聞「私の履歴書」に満を持して登場された橋田壽賀子先生。NHK連続テレビ小説『おしん』など、多くの名作を世に送り出した人気脚本家ということで。文章のパフォーマンスに非常に長けたレジェンドの履歴書に、多くの読者が魅了され...

(26)「渡鬼」

橋田壽賀子(26)「渡鬼」 - 日本経済新聞
「渡る世間は鬼ばかり」は「ドラマのTBS」の看板を背負って制作されたドラマだった。それ以前にNHKで「おんな太閤記」「いのち」「春日局」という3本の大河ドラマを書いていたから、TBSも私に民放版大河を書かせてみようと思ったようだ。ただ「渡鬼」には「橋田壽賀子ドラマ」という冠が付いた。私は新聞をよく読む。中でも投書欄は欠...

 

(26)『渡鬼』」については別記事をこしらえました。下記ページをご確認ください。

日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子(26)『渡鬼』」が明かす民放版大河の真実
TBSの国民的ホームドラマと言えば『橋田壽賀子ドラマ 渡る世間は鬼ばかり』なわけですが。 令和元年五月、日経新聞の「私の履歴書」に登場した橋田壽賀子さんが渡鬼の物語をこしらえるにあたって重要視されていたことなどを改めて語りました。 以下、日...

(27)「春日局」

橋田壽賀子(27)「春日局」 - 日本経済新聞
NHKの大河ドラマは日曜の夜、1年間放送される。1回が45分で年間50回ほどになる。構想に1年、執筆に1年。丸々2年ほど準備して放送にこぎ着ける。脚本家に取っては名誉でもあるけれど、骨身を削る大仕事だ。私は1981(昭和56)年に「おんな太閤記」で大河デビューを果たした。86年に放送された「いのち」の執筆依頼を受けたの...

 

私への依頼は、ある有名作家の明治を舞台にした原作を脚色してほしいとのことだったが、私は原作物は書かない主義を通してきた。そのことを話すと、NHKの方もわかってくださった。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月28日付朝刊

このことも先生が「橋田壽賀子」である所以。並の人間ではまず通らないし、理解されずに話がよそに行ってしまうかもな言い分。

 

3作目の大河は89年の「春日局」だった。〈中略〉結果は大河ドラマ歴代視聴率3位。夫には感謝しかない。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月28日付朝刊

先生、ただただ凄い。

もしご主人が長生きされていたら、先生の陰ながらの軍師として大いに手腕を発揮されたに違いない。ただただ惜しい。

(28)忠臣蔵

橋田壽賀子(28)忠臣蔵 - 日本経済新聞
私はこれまで何度かテレビ局の節目にドラマの脚本を手がけてきた。1979(昭和54)年12月9日に放送された「女たちの忠臣蔵~いのち燃ゆる時~」はTBSの東芝日曜劇場1200回記念ドラマで、プロデューサーは石井ふく子さん。演出は私が脚本の売り込みに走り回っていたころから親しくしている鴨下信一さん。忠臣蔵は何度もテレビドラ...

 

先生が手がけた『女たちの忠臣蔵「いのち燃ゆる時」』と『源氏物語』。

どちらも石井ふく子プロデューサーと鴨下信一監督の作品で、出演者がとにかく豪華絢爛!

 

女たちの忠臣蔵「いのち燃ゆる時」|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
橋田壽賀子が脚本を手がけた東芝日曜劇場1200回記念番組。忠臣蔵の物語にまつわる女たちの愛と別れをテーマに描き、高視聴率を記録した感動巨編。

まずは「女たちの忠臣蔵」。1979年の作品ということで、当時はまだ泉ピン子さんがキャストに入っていなかったのが気になりました。

 

源氏物語|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
“光君”ともてはやされた光源氏の生涯を描く、紫式部による長編物語「源氏物語」をテレビドラマ化。出演は東山紀之、片岡孝夫、大原麗子ほか。

続いて「源氏物語」。1991年の作品ということで、渡鬼第1シリーズで活躍された香川照之さんと藤田朋子さんもキャスティングされていたのが興味深いところ。その後、藤田朋子さんに関しては、メインキャストとして長きに渡って渡鬼にご出演。香川照之さんに関しても、先生や石井ふく子プロデューサーの作品に再び出演されることを願いたい。

 

(29)移民物語

橋田壽賀子(29)移民物語 - 日本経済新聞
「戦争と平和」を考えるとき、私には原風景がある。ほかでもない、愛媛県今治の漁師の長男でありながら家を出てソウルに渡った私の父だ。戦前、多くの日本人が中国大陸、南米、北米、南方の島々へ、移民として新天地を求めて渡海した。彼らは血のにじむ苦労の末に生活の基盤を築くが、日本の敗戦によって辛酸をなめる。移民の歴史は戦前、戦後の...

 

先生が手がけた『ハルとナツ~届かなかった手紙~』と『99年の愛 ~JAPANESE AMERICANS~』。2作品とも渡鬼には登場されていない大女優が出演されました。

無論、先生が石井ふく子プロデューサーと組まれた作品の場合、石井ファミリーの役者さんがキャスティングされることが多いです。他方、先生が別のプロデューサーと組まれた作品の場合、石井ファミリー以外の役者さんを橋田壽賀子ドラマで嗜むことができる醍醐味があります。

 

特集ドラマシリーズ「ハルとナツ」|NHKドラマ
NHKドラマに関する総合情報サイト。新作トピックスやドラマ再放送情報はもちろん、放送中のドラマ番組に関するデータも充実しています。

まず「ハルとナツ」には野際陽子さんが出演されました。橋田壽賀子ドラマに野際陽子さんがキャスティングされたのは稀有かもしれません。是非ともNHKで再放送してほしい作品です。

 

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TBSテレビがお届けする「TBS開局60周年 5夜連続特別企画 99年の愛 〜JAPANESE AMERICANS〜」の公式サイトです。11月3日〜7日までよる9時から5夜連続放送!予告やあらすじなど、ドラマ情報はこちらから!

続いて「99年の愛」には八千草薫さんと岸恵子さんが出演されました。

ちなみに、八千草薫さんに関してはTBSの『女の言い分』という先生と石井ふく子プロデューサーの作品に出演されています。それでも橋田壽賀子ドラマへのご出演はやはり稀有かも。

 

人は人を殺してはいけない。だから私は殺人事件をテーマにしたドラマを書いたことがない。

出典:日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子」2019年5月30日付朝刊

揺るがなかった先生の信念。だから「橋田壽賀子ドラマ」は安心して観ることができた。

(30)2つの腕時計

橋田壽賀子(30)2つの腕時計 - 日本経済新聞
私には自伝的なドラマが2本ある。一つは1994(平成6)年10月から翌年9月まで放送されたNHK朝の連続テレビ小説「春よ、来い」だ。私が日本女子大に入るために上京し、脚本家になり夫が亡くなるまでの日々を描いている。松任谷由実さんの主題歌が印象的だった。NHKからこのお話をいただいたとき、ためらいを覚えなかったわけではな...

 

「(30)2つの腕時計」については別記事をこしらえました。下記ページをご確認ください。

日本経済新聞「私の履歴書 橋田壽賀子(30)2つの腕時計」という名のエピローグを忘れない
令和元年の五月、毎日読むのが楽しみになっていた日本経済新聞「私の履歴書」。それもそのはず。あの超人気作家・橋田壽賀子先生が筆者だったわけですから。何とも絶妙で卓越した文章表現でしたので、虜になった方も多いはず。しかし、楽しい時間はあっという...

まとめ

日本経済新聞朝刊の「私の履歴書」に橋田壽賀子先生が令和初の筆者として登場されたので特集してみました。

改めて橋田壽賀子先生の文章表現力には只々脱帽なわけです。

 

大きな反響を呼んだ日経新聞連載「私の履歴書」の書籍化!

 

とにかく「おしん」が再放送されて大ブレークな橋田壽賀子先生の令和元年。